Aikido no kokoro: Essence of Aikido

参段審査作文

合気道の心は何なのかは分かりません。もしくはまだ理解できるほど上達していません。まだ練習が足りないのかも知れません。では、練習すればするほど上達できるかというと、多少才能がなければ必ずしもできるとは言えないでしょう。そしたら、合気道をやる、合気道を続ける意味はいったいあるのか、あったとしてもどこにあるか、という疑問が生じます。そこで思うようになったのは練習すること自体に意味があるのではないかということです。

合気道で中心になっている行動・活動と言えば稽古である。「武道は礼に始まり、礼に終わる」と言うように礼儀作法を覚える為に合気道、あるいは他の武道を始めた人もいるでしょうが、(自分も含めて)強くなるために始めた人が一番多いのではないかと思います。しかし、礼儀作法を覚える為に合気道をやっていたら覚えた時点で続ける意味があるのでしょうか。あるいは、強くなったら喧嘩を売りに歌舞伎町に出かけるかと言えば、そんなこともしないでしょう。逆に、喧嘩はしたくない、合気道の技を実戦で使いたくないと言う思いの方が強くなるでしょう。喧嘩をしなくてもいいように武道をやっていると言っても過言ではないかも知れません。

また、他のスポーツのように試合や大会で勝ち負けを争っている訳でもなければ、書道や陶芸のように芸術作品を作っている訳でもありません。時には演武大会が行われて、稽古の成果を見せる機会もありますが、演武大会だけの為に合気道をやっている人は先ずいないでしょう。稽古の後のビールをより美味しく味わえる為にやっている人はたまにいたりしますが。ただ、それならやはり合気道をやる理由が見付けにくいです。試合や大会がなければ、オリンピックの金メダルのような栄光が手に入らない、芸術作品も作らない、世間に具体的な何かを残しているわけでもない。ビールはマラソンの後でも十分美味しい。

武道は英語で「マーシャル・アーツ」、日本語で言うと「武の芸術」と言う風に訳されるが、やはり芸術とは違うのではないかと思います。たとえば、動きが中心になっている日本舞踊、あるいはバレーはやはり一つの演舞によって世間に感動を与えて、芸術になります。しかし、合気道は見せるためのものではありません。かえって、自分の経験から言うと、気が散るので、やっている方は見られたくないかも知れません。その上、合気道を見学するのは面白くないことはないが、やはり自分でやりたくなる、動きたくなるので、見学はムズムズしてじっとしていられません。素人にとって合気道の見学は最初は面白くても、だんだん退屈するでしょう。

しかし、合気道と芸術は共通点もあります。「誰でもピカソ」と言う番組でビート・タケシが次のように述べたことがあります。「アーティストはプロフェショナルでなければならない。己のアートで食っていけなければ、プロでもないし、アーティストでもない。」しかし、それはちょっと違う気がします。歴史上には貧しい生活を送りながら自分のアートを追求して、なかなか自分の時代の人々に認めてもらえなかった偉大なアーティストが大勢いました。それでも世間の趣味や流行に屈せず自分の理念を追ってきたからこそ、後に認められたのではないかと思います。そういう気持ちは日本の職人魂にもよく似ていると思います。こだわりにこだわって、大して利益も期待できないのに、一つの品を芸術品に仕立てるという精神は論理上で理解できなくても、その気持ちは大いに尊敬できると思います。スポーツの分野で言えば、イチロー選手をもそういう風に解釈できないでしょうか。もちろん彼は大成功を収めて高い契約金を手に入れました。しかし、たとえ大金をもらえなくても、彼は同じように野球をやっていたのではないかと思います。お金は嬉しい副作用ですが、目的ではありません。世界最強の野球選手とやりあいたくて彼はアメリカに渡ったのだと思います。

合気道もそういうこだわりの職人魂のような精神を大切にしていると思います。合気道の稽古は技の鍛錬、ただそれだけです。技を何回も繰り返しているうちに体に覚えさせ、技を身につけ、技の理想的な形にこだわり、少しでもその形に近づけるように粘って、更に極める:それが稽古です。芸術ではないかもしれませんが、職人技に極めて近いところがあると思います。合気道の心はまだまだ掴めないかと思いますが、そういう意味でこれからも稽古に励みたいと思います。

(原作: Max Seinsch